2014年10月10日金曜日

病人と医療の関係


 私たち医療従事者は基本的に西洋風の医療の知識を教えられてきました。その西洋風の医療についての知識や考え方も、実は最近今日の考え方の基礎が出来上がってきたのです。それまではどちらかというとウィッチドクターというか、現在の我々の眼から見るとかなり奇異な、そして一般的な了解の得られないような見方をしていました。現代にも残る『悪液質』という呼び方にその当時の病に関する人間の捉え方というか、生命観が現れています。

 むかし、血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁の4種類を人間の基本体液だと考えられていました。そして人間の身体には数種類の体液があり、その調和によって身体と精神の健康が保たれ、バランスが崩れると病気になるとする考え方(体液病理説)一般的で、古代インドやギリシャで唱えられたそうです。インドからギリシャに伝わったとも言われています。この考え方は、病理解剖学が現れる19世紀あたりまで一般的でした。悪液質という呼び名も、この体液病理説に沿ったネーミングです。

 病理解剖によって、人体の組織と疾患が対応付けられるようになると体液病理説は姿を消していきましたが、その代わり、病における症状は病の本質を表すものと偶発的なものとに分けられるようになっていきます。例えば、上気道感染における体温上昇はその感染症の本質的な部分ですが、その熱の上り方の個体差は偶発的なものとされます。そして病を理解するためには個体差にあたる部分を出来るだけ切り離して、本質的なところだけを見るようにするという姿勢が一貫してとられる様になります。

 つまり、我々が正確に診断するために持つべき『まなざし』は、個々の病からその本質を抽出するべきであり、一人ひとりの病気の具体的な症状にとらわれるべきではない、とされるようになりました。診察室でのさまざまな検査や問診などは、従って、出来るだけ一人ひとりの生活史と無関係に、没個性的に行うのがいいという風潮が出来上がっていったのです。そのことが『病院で人間扱いしてくれない』という不満が出ることにも繋がっていきます。

 診断は無機的、没個性的、非人情にというのが大まかに言って近代以降の臨床医学の要求だったのです。最近、認知症など、人間の心を扱う分野では、没個性的に、機械的に、客観的学問の装いを前面に出して、というのが間違いではないかといわれ始めています。それがユマニチュードという言葉とともにフランスから取り入れられようとしています。これについてはまたこのブログで取り上げることもあると思います。

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